縁の糸 5 —— リクオ 嫁取り物語 ——
1
リクオは携帯電話を右耳に当てたまま、通りを歩いていた。時折相槌を打ってはいるが、その顔は半分引きつっている。
もう、かれこれ二十分はこうしているのだ。
ひと仕事終えた帰り道、駅に向かって歩くリクオの携帯電話がなった。いつもは着信画面を確かめて出るのが、この時は相手を確かめずにうっかり電話に出てしまった。そしてこの始末だ。無下に切るわけにもいかず、相手の暴走話に相槌を打っている。
『今日はホントごめんな!』の第一声から始まって、まだ話は終わらない。
『なぁ、頼むよ。今回限りだからさ!』
と電話がかかってきたのが数日前の事。
家庭教師のアルバイトを一日だけ代行してもらえないかというのだ。どうしても外せない用事が出来てしまったのだという。
『先方の家には了解済みだからさ、頼むよ奴良!』
「ちょっと待った!…それって——」
了解済み——それはもう既に自分が代わりに行く事になってしまっているという事なのだろうか?
リクオは携帯電話を耳に当て乍ら、空いた片手で額を押さえた——。
『それでさぁ——』
「うわっ!…え?何?」
その時。
いきなり、空いている左の耳から大音量の何かが流れ込んで来た。お陰で電話の向こうの声が聞こえなくなってしまったのだ。リクオは歩みを止めて左耳に人差し指を突っ込み乍ら聞き返す。
『だから——』
するとその時。
ピッピッピッピ。電子音が響いた。
〈…電池の残量がなくなりました。充電して下さい〉
携帯電話ディスプレイを見ればメッセージが点滅している。そして瞬く間にその電源は落ちた。
「…あ…」
リクオは真っ黒になった携帯電話のディスプレイを眺めて溜め息を付いた。
電話の向こうの彼は、電話が切れた事にも気が付かず喋り続けているだろうか。それとも、電話がいきなり切れた事に憤慨しているだろうか。
しかし、これで長い割には中身の無い入江の話を聞かなくて良くなった。これはこれでよしとしよう、リクオはそう思った。
入江というのは最近ゼミで偶然隣になった男で、二言三言言葉を交わしただけだというのに、すっかり意気投合し(と入江は思っているらしい)てしまい、今ではこの様によく電話で話す様にもなった。といってもかけてくるのは専ら入江の方で、リクオからかける事はまず無い。
入江の今日のどうしても外せない理由というのは、どうやらデートであったらしい。
『奴良のお陰で彼女ともより親密になれた』と何度も礼を言われ、聞きたくもないデートのあらましを今まで長々と聞かされていた矢先、携帯の電源が落ちたという展開だ。
「…お幸せに…」
沈黙した携帯電話を鞄にしまって、ふと顔を上げる。視線の向こうに、先ほどの大音量の元凶が見えた。大きなトレーラーの様な――宣伝カーだった。大きな音を流し乍ら四つ角を曲がってゆく。トレーラーが曲がる際に、こちらに側面がチラリと見えた。
——あれは…カナちゃん——
そこにはもう随分と会っていない幼馴染、家長カナの笑顔があった。雑誌の読者モデルを経て、本格的にモデル活動、そして今度は——どうやら歌も出すらしい。PVの宣伝カーらしかった。
——歌も上手かったっけ?——
確か芸名があったはずだが何といっただろうリクオは思い出せなかった。けれど、それは間違いなくリクオの知る家長カナであった。
『私ね、マネージャーさんとね、一緒に暮らす事になったの。…モデル…頑張るね…』
そう言って挨拶に来たのは何年前の事だったか。
「…頑張れよ、カナちゃん」
宣伝カーが姿を消した角から視線を外して、前を向く。リクオは駅に向かってまた歩き始めた。
駅前、総合商業施設の中に入る。ここを真っ直ぐに抜ければ駅である。リクオは様々な店舗に視線を投げ乍ら駅へと向かった。
2
「お帰りなさいませ、リクオ様」
「ただいま、雪女」
「如何がでしたか?えっと…カテーキョーシでしたっけ?」
「あぁ…相手は中学生だったからね、まぁ楽勝」
先に風呂にするよ、と出迎えた雪女に言伝ててリクオは自室へと向かった。
自室に入ったリクオは明かりも点けず、鞄から携帯電話を取り出すと机の上に据え置いている携帯の卓上ホルダーに差し込んだ。充電する為だ。
そして鞄を無造作に投げ置くとまた出て行った。
風呂から上がり、夕食を済ませ、妖怪達と語らい、そうするうちに夜は更けてゆき何時しかリクオは夜の姿へと変化を遂げていた。
酒を呷っている時だった。
「リクオ」
呼ぶ声に顔を上げれば母•若菜。
「お母さん、もう休むけれど、あまり呑み過ぎない様にね」
「…あぁ」
「夏休みだからって程々にね」
「……。…解っている」
「あ、それからお部屋散らかってたから片付けたわよ」
散らかってた?——散らかした覚えは無いが。
眉をひそめて母を見やれば、若菜は笑顔を返して来た。
「鞄、放り投げておいてあったじゃないの。ダメよ」
じゃ、お休み、と若菜は自室へと戻って行った。
何か気になって自室に戻ってみれば、放り投げた鞄は部屋の隅に据え置かれてあるコートハンガーに掛けられていた。そして机の上には鞄の中にあったモノが全て取り出されて綺麗に並べてあるではないか。
「…おいおい…」
リクオは独りゴチてポリポリと頭をかいた。
どうやら鞄の中をすっかり見られたらしい。別に見られて困るモノなど一つもないが——ふと並べられたモノの中のDVDに目が止まった。帰り道、買い求めたモノだが。
『先日、リクオの部屋を片付けていたらこんなモノが出て来たんですよ——』
コレを見た母はうっかりジジィに何か言ったりしないだろうか。ふと不安がよぎる。
机の前に座り、DVDを手に取った。パッケージには自分の良く知る笑顔があった。自分の記憶にある笑顔とは幾分大人びていたが、それでも間違いは無かった。
芸能界という場所で頑張っている幼馴染みに自分がしてやれる事はこれくらいだ。
机の引き出しを開けて、手にしていたDVDを放り込むと、荒っぽく閉めた。
机の上の携帯電話に目をやる。充電は既に完了しているようであった。手に取って電源をオンにする。ディスプレイに光が戻り、携帯は息を吹き返した。
「?」
見れば「メール1件」の文字。珍しい。リクオはほとんどメールを使わない。なので受ける事も余り無い。誰からだろうと、チェックしてみれば——〈花開院ゆら〉と差出人の名があった。
『奴良くんへ。お久しぶりです。お元気ですか?電話をしようかとも思いましたが夜も遅いのでメールにしました——』
受信時間を見れば、今から一時間程前になっている。
珍しい、何かあったのか。
電話ではなくメールにしたのはゆら自身が夜の自分を敬遠しているからだ。決して夜遅いからでは無い。それに気が付かないリクオではなかった。
それでも、こうやって連絡をくれる事には応えなければならないと思う。
『今度の土曜日に東京へ行きます』
何しに来る?何かあったのか…狐が復活とか?——その文字を暫し眺めていたリクオだったが、ひとつ小さく息をついた。一人考えていても始まらない。通話ボタンを押す。
電話は四回程コールして繋がった。
『…も、もしもし…?』
上ずった声が受話器から聞こえる。
「いつだ?」
『奴良…くん?』
「今度の土曜、何時にこっちへ来る?」
相手の質問には答えず、リクオは問い返す。
『…えっと…ちょっと待って…。…えっと…』
ガザゴソ…ボソッ!携帯から聞こえる大きな音に、リクオは思わず携帯を耳から遠ざける。
『…あ、ゴメン、電話落としてしもた』
「………」
そそっかしいのは相変わらずか、とリクオは小さく溜め息を付くが、口に出しては何も言わない。
『…えっとな、午前十一時三十三分、東京駅…』
「…。…東京へは…何しに来るんだい?」
『…えっと…ちょっと野暮用』
「どうした、なにか厄介な事でも?」
『…うん…ちょっと厄介かな』
いつだったかの『今度東京に来る時は連絡貰える?道案内くらいは出来るし』と言ったリクオの言葉に素直に甘えたのだという。
そういや、そんなコトも言ったっけ?——リクオは頭の隅っこで思い返し乍ら心中呟いた。
「…。…ホームまで迎えに行ってやる…うろちょろするんじゃねぇぞ。いいな?」
『あ…うん…』
「…。…じゃ…切るぜ?」
そう言って携帯を耳から外しかけた時。
『待って、奴良くん!』
ゆらの慌てる声が聞こえて、もう一度携帯を耳に押し当てる。
『…あの…電話、ありがとう…』
「……。じゃあ…な」
つづく